西洋絵画の基礎知識14 西洋近代絵画「新印象派・ポスト印象派(後期印象派)」

西洋絵画の基礎知識14 西洋近代絵画「新印象派・ポスト印象派(後期印象派)」

西洋近代絵画の新印象派・ポスト印象派の基礎知識がわかりやすい。大人として知っておきたい教養、名画・西洋絵画の基礎知識。

西洋近代絵画「新印象派、ポスト印象派(後期印象派)」 概要

印象派は、1874年の第1回印象派展に始まり、1886年の第8回印象派展で終わりを告げますが、次の絵画様式へとつながっていきました。
印象派の色彩を科学的に突き詰め点描へと至った新印象派と、印象派を受け継ぎながら画家それぞれの個性を発揮したポスト印象派(後期印象派)です。
新印象派も大きなくくりではポスト印象派で、印象派が分裂した後約20年くらいの芸術家たちの総称がポスト印象派となります。
新印象派は印象派をまとめていたピサロが支持しますが、印象派の巨匠であったモネやルノワールは認めませんでした。
ポスト印象派は、自然をまねるのではなく、好きなものを好きな形に好きな色で描き、自由に構成し自由に表現する絵画独自の美を追究し、技術よりも個性を重視しました。これらの転換は、近代アートを現代アートへとつなげる重要な役割を果たしました。
新印象派、ポスト印象派と言ってもわかりにくいですが、新印象派は点描画のスーラ、ポスト印象派は誰でも知っている、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、が代表者です。
※「後期印象派」は、日本に紹介された際の誤訳で、正しくは「ポスト印象派」(印象派の後の様式であって後期の印象派ではない)であるが、日本では現在でも一般的に用いられている用語。

西洋絵画史 近代の年表
1800年頃〜ロマン主義
新古典主義
写実主義
ラファエル前派
象徴主義
印象主義
新印象主義
ポスト印象主義
1900年頃〜キュビスム
フォーヴィスム
抽象主義
表現主義
ダダイスム
シュルレアリスム
コンセプチュアル・アート抽象表現主義

ジョルジュ・スーラ

ジョルジュ・スーラ 1859年〜1891年 フランス 新印象派

点描で有名なスーラは新印象派の画家。
鑑賞者の網膜で色が混ざる「視覚混合」を突き詰め、色を点として並べる点描を考案しました。
近いものは大きな点、遠いものは小さな点で描く点描の遠近法など、点描にこだわって描きましたが、わずか31歳で亡くなりました。

新印象派 スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1886年 205.7×305.8cm、シカゴ美術館
セーヌ川に浮かぶグランド・ジャット島でくつろぐパリの人々を描く。
すべて点で描かれた点描の代表作で、新印象派の代表作。
新印象派 スーラ『アニエールの水浴』1884年 201×301.5cm、ロンドン・ナショナルギャラリー

シニャック

ポール・シニャック 1863年〜1935年 フランス 新印象派

スーラの親友で新印象派のもうひとりの代表者。
秘密主義者で研究家肌で無口なスーラとちがい、社交的で明るいスーラは点描を広めることに貢献しますが、シニャックが点描の創始者であるとみなされるようになりスーラから絶縁されます。

新印象派 シニャック『フェリックス・フェネオンの肖像』1890年 73.5×92.5cm、ニューヨーク近代美術館
新印象派 シニャック『サン=トロぺの港』1899年-1901年 131×161.5cm、国立西洋美術館(東京)

セザンヌ

ポール・セザンヌ 1839年〜1906年 フランス ポスト印象派

「近代絵画の父」と呼ばれる巨匠。
当初はモネやルノワールらとともに印象派として活動していましたが、独自の様式を追求し故郷である南フランスでひとり格闘し、西洋絵画史上とても重要な画法を産み、ピカソら現代芸術へと大きな影響を与えました。
セザンヌはデッサンが下手で、自然そっくりに描けない不器用さを逆手にとり、自然を自分でも描ける単純な形「円筒形と休憩と円錐形」の組み立てによって構築し、ひとつの対象を多角的にみて本質を捉えカンヴァスに再構成する「構築主義」を生み出しました。
セザンヌの画法はピカソやブラックのキュビズムへと発展していきます。

ポスト印象派 セザンヌ『リンゴとオレンジ』1895年 73×92cm、オルセー美術館
ただの静物であるリンゴやオレンジを、上から見たり横から見たりしたものを、再構成する「構築主義」にって描かれたセザンヌの代表作。
リンゴは親友であった自然主義文学の文豪エミール・ゾラとの思い出の品で、学校でいじめられていたゾラをセザンヌがかばい、ゾラがお礼として贈ったのがリンゴでした。
ポスト印象派 セザンヌ『大水浴』1898年-1905年頃 208×249cm、フィラデルフィア美術館
セザンヌ画家人生の集大成ともいえる最高傑作。
ポスト印象派 セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』1887年頃 67×92cm、コートルード・ギャラリー
セザンヌは家の近くから見えるこの山を百点近く描いている。
ポスト印象派 セザンヌ『カード遊びをする人々』1894年-1895年 47.5×57cm、オルセー美術館
セザンヌは同じ主題を多く描いた。リンゴの静物、サント・ヴィクトワール山、水浴、そしてこのカード遊びをする人々。

ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホ 1853年〜1890年 オランダ ポスト印象派

内面の精神性を激しいタッチと独特の色彩で表現した19世紀末オランダの画家。
故郷のオランダで商会や書店の店員、教師など職を転々とし、聖職者を目指すも挫折。
画家を目指し、画商であった弟のテオを頼りパリへと移る。
美術を学んだことがないゴッホは、印象派や浮世絵の影響を強く受け、絵具を素早いタッチで分厚く重ねる激しいタッチで描くゴッホ独自の画法を確立させました。
後年フランス南部のアルルにて画家の共同体を作るために移り住みゴーガンと共同生活を始めるが2ヶ月で破綻する。
次第に精神を病んだゴッホは拳銃自殺により短い生涯を閉じる。
37歳で亡くなったゴッホの画家としての活動期間は10年と短いながらも、素描画も含めると約2,000点の作品を遺した。ゴッホが生前に売れた絵は1枚だけであったが、わずか10年の画家人生であったゴッホの作品は批評家からも高い評価を受け、もし生きていれば生前から成功した画家となっていたとも思われる。
ゴッホが現代絵画に与えた影響はとても大きく、今なお人気の画家のひとりとなっている。

※ゴッホの死の異説
ゴッホは精神を病み拳銃自殺したということが通説となっているが、経済的トラブルによる弟テオによる殺害という説もあり、近年では交友関係にあった少年が暴発させた銃弾により死を悟ったゴッホが、少年を守るために自殺をよそおったという説もでてきている。(Steven Naifeh『Van Gogh: The Life』2011、Random House)

ポスト印象派 ゴッホ『夜のカフェテラス』1888年 油彩 81×65.6cm、クレラー・ミュラー美術館
ゴッホはよく通っていたカフェで絵を描いていたが、本作はそのカフェを描いたもの。
夜の青さとカフェの黄色の対比はゴッホが好んだもので、夜でも黒を使わず色彩豊かに描いている。
夜空の星も適当ではなく正しく描かれている。
本作は、カフェの真ん中にいる人物がキリストで、キリストと12使徒を描いた「最後の晩餐」であるという説もある。
ポスト印象派 ゴッホ『ひまわり』1888年 油彩 91×72cm、ノイエ・ピナコテーク
ゴッホはほぼ同じ構図の「ひまわり」を少なくても7点描いたが、1枚は紛失している。
南フランスの明るい太陽の象徴でもあるひまわりを、ゴッホはアルルでゴーガンとの共同生活を始めるときに家を飾るために複数描いたという。
うち1点はSOMPO美術館に所蔵されている(53億円で購入)。
ポスト印象派 ゴッホ『タンギー爺さん』1887年 油彩 92×75cm、ロダン美術館
ゴッホの肖像画の代表作。後ろには歌川広重らの浮世絵が描かれ、ゴッホとジャポニスムの関係がわかる。
ポスト印象派 ゴッホ『アルルの跳ね橋』1888年 油彩 54×65cm、クレラー・ミュラー美術館
パリで活動していたゴッホは突然南フランスのアルルに移り住んだ。
本作はアルルの運河にかかるラングロワ橋。
ポスト印象派 ゴッホ『アルルの部屋』1889年 油彩 57.5×74cm、オルセー美術館
ゴッホとゴーガンが共同生活をしていたアルルの「黄色い家」内のゴッホの部屋。
同じ構図の作品を3点描いた。
ポスト印象派 ゴッホ『包帯を巻いた自画像』1889年 油彩 60×49cm、コートールド・ギャラリー
ゴッホが自らの耳を切り落とした後に描かれた自画像。
ゴッホとゴーガンの共同生活は破綻し、その締めとして発生した「耳切事件」。
この1888年12月の事件によりゴッホは精神病院にて療養することとなった。
ポスト印象派 ゴッホ『星月夜』1889年 油彩 73.7×92.1cm、ニューヨーク近代美術館
ゴッホの代表作で、精神を病み修道院内の精神病院にて療養中に描いた作品。
ポスト印象派 ゴッホ『赤い葡萄畑』1888年 油彩 75×93cm、プーシキン美術館
ゴッホの生前に売れた唯一の作品(400フランで売却)。
アルルのブドウ畑で働く農民たちを描いた。
ポスト印象派 ゴッホ『ジャガイモを食べる人々』1885年 油彩 81.5×114.5cm、ゴッホ美術館
ゴッホがまだオランダにいるときに描いた初期の代表作。

ポール・ゴーガン

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン 1848年〜1903年 フランス ポスト印象派

タヒチで活動したことで有名な楽園の巨匠。
ビジネスマンとして成功しながらも、趣味で描いていた絵がサロンに入選し、35歳にして脱サラし専業の画家となりました。
当初絵は売れず、妻も子どもも愛想を尽かして実家に戻ってしまいます。
2ヶ月で破綻したゴッホとの共同生活など画家として試行錯誤を繰り返しますが、新天地を求め南太平洋にあるフランス領タヒチへと移り、芸術家として活動を続けました。
ゴーガン絵画の特徴は、黒い輪郭線によって分けた中の色をべた塗りする「クロワゾニスム」、タヒチの民俗芸術を取り入れた「プリミティヴィスム」。
ゴーガンが提唱した「綜合主義」は、目に見えるものと目に見えない精神世界を同時に表現した(内面と外面、主観と客観)、印象主義と象徴主義を統合した美術様式となり、20世紀の抽象絵画へと繋がった。

ポスト印象派 ポール・ゴーガン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』1897年 油彩 374.6×139.1cm、ボストン美術館
ゴーガンがタヒチで描いた大作で、ゴーガンの代表作。
ゴーガンは死ぬつもりでこの作品を遺作として書き上げたが、完成後の自殺には失敗した。
右から赤子・禁断の果実を取る成人・死を目前にした老婆が描かれ、ゴーガンの精神世界と想いが込められている。
ポスト印象派 ポール・ゴーガン『タヒチの女たち』1891年 油彩 69×91cm、オルセー美術館

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