1800年頃〜 | ロマン主義 ↓ | 新古典主義 ↓ |
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写実主義 ラファエル前派 ↓ | 象徴主義 ↓ | |
印象主義 ↓ | ↓ | |
新印象主義 ↓ | ↓ | |
ポスト印象主義 ↓ | ||
1900年頃〜 | キュビスム ↓ | フォーヴィスム ↓ |
抽象主義 ↓ | 表現主義 ↓ | |
ダダイスム ↓ | シュルレアリスム ↓ | |
コンセプチュアル・アート | 抽象表現主義 |
キュビスム
いわゆるピカソらしい絵画がキュビスム(cubisme)。日本語では立方体派を意味していて、英語読みだとキュビズム。
1907年〜1917年頃にパブロ・ピカソとジョルジ・ブラックが中心となりおこなわれた様式。
ポスト印象主義のポール・セザンヌの多角的な視点を1枚に再構成する様式を突き詰め、いろいろな視点から見た対象物を、単純な幾何学的立体に分解し、1枚のカンヴァスに再構成します。
ほかに、印刷物を切り貼りしたり、わざと稚拙に描いたりという表現手法もありました。
形も、視点も、色も、素材も、作者が思いつくまま自由に構成するのがキュビスムの特徴です。
「色に自由」を突き詰めたのがフォーヴィスムであり、「形の自由」を突き詰めたのがキュビスムです。
デッサンが下手であったセザンヌがいたからこそ生まれた様式で、現代絵画のひとつの出発点であるといえるでしょう。
静物や自然を幾何学的立体に分解して再構成するのが、ポール・セザンヌを受け継ぐ1907年頃の初期のキュビスム(セザンヌ的キュビスム)です。
その後1909年頃、立体を更に細かく分析し切り子のような面に解体し、さらに平面的で何を描いているのかわからにまでに至った分析的キュビスム。
1912年頃になると、四角ではないカンヴァスや、既存の印刷物や布を切り貼りするコラージュなどを取り入れた総合的キュビスムへと進化します。
1907年にキュビスムの嚆矢となる作品『アヴィニョンの娘たち』が制作されました(『アヴィニョンの娘たち』はあまりに前衛的であったため、一般に公開されたのは1916年でした)。
『アヴィニョンの娘たち』と1907年のセザンヌ回顧展に強い影響をうけたジョルジ・ブラックが1908年の秋季展に出品した作品が、美術評論家ヴォークセルに「キューブ(立方体)」と形容され、キュビスムと呼ばれるようになります。
1909年、ピカソとブラックはモンマルトルの安い下宿「洗濯船(パトー・ラヴォワール)」にて、キュビスムを探求する共同活動を開始し、多くのキュビスム作品を制作しました。
1914年にブラックが第一次世界大戦に従軍すると、ピカソとの共同作業が終了しキュビスムも収束していきました。
パブロ・ピカソ
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ 1881年〜1973年 スペイン キュビスム
世界一有名な芸術家と言っても過言ではないスペイン出身の芸術家。
ピカソの代名詞のようなキュビスムの作風はピカソの人生の一時期のみで、常に革新を続け作風を変えていきました。絵画だけではなく版画、彫刻、陶器なども制作しました。常に何作もの作品を同時に制作していたピカソは、歴史上最も多くの作品を制作した芸術家としてギネス認定されています。
芸術家でありながら、作風や芸術様式を突き詰め続けた研究者のような人物であったともいえるでしょう。
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ピカソの作風は次のように変化していきました。
初期(0歳〜19歳頃まで、1881年〜1901年)
ピカソは幼い頃から絵を描いていましたが、いわゆるピカソらしくない写実的でとても上手な絵がのこされています。
1896年の作品 → 『初聖体拝領』(外国のサイトです)
青の時代(19歳頃〜23歳頃、1901年〜1904年)
ピカソの親友がピストル自殺をしてしまったのを期に始まったとされる、ピカソ青年期にうつ病を患っていた時に描かれた作品群を「青の時代」という。名前の通り、心象をそのままあらわずような青い画面が特徴で、娼婦や乞食など社会の底辺に生きる人々を描いた。
1901年の作品→『自画像』(外国のサイトです)
バラ色の時代(23歳頃〜25歳頃、1904年〜1906年)
青の時代を脱したピカソの絵画には色が戻ってきます。
主題も俳優や曲芸師、アスリートなどが現れ、生命力が感じられるようになりました。
1905年の作品→『IN “LE LAPIN AGILE” OR HARLEQUIN WITH A GLASS』(外国のサイトです)
アフリカの時代(25歳頃〜27歳頃、1906年〜1908年)
アフリカの仮面や彫刻などのプリミティヴ・アートに強い影響を受けたピカソが、アフリカ芸術を取り入れた作品を制作した時代です。
キュビスムの起点となった『アヴィニョンの娘たち』もアフリカの影響を強く受けています。
1907年の作品→『女性の胸像』(外国のサイトです)
キュビスム(26歳頃〜40歳頃、1907年〜1921年)
ピカソの代名詞でもある「キュビスム」を多く作成した時代です。
1921年の作品→ 『STILL LIFE WITH GUITAR』(外国のサイトです)
新古典主義(36歳頃〜44歳頃、1917年〜1925年)
イタリア旅行で歴代の巨匠たちの作品をみたピカソは、「美術様式は芸術家に制約を強いる」と考え、より自由に描くようになります。この時代には古代彫刻のような絵画を制作しました。
1922年の作品→『WOMEN RUNNING ON THE BEACH』(外国のサイトです)
シュルレアリスム(44歳頃〜55歳頃、1925年〜1936年)
新しい潮流であったシュルレアリスムに興味をもったピカソは、妻との不和や新しい恋人という私生活も作風に大きく影響し、シュルレアリスムの作品を描きます。
1925年の作品→『三人の踊り子』(外国のサイトです)
1931年の作品→『浜辺の人物』(外国のサイトです)
戦争(56歳〜65歳くらい、1937年〜1946年)
ナチスドイツが台頭し第二次世界大戦へと突入するなか、スペインでもファシズムが台頭し、ピカソは反ファシズムの運動を始め、筆とカンヴァスを武器として戦いました。
スペインのゲルニカが空爆されたことに非難する大作『ゲルニカ』はピカソの代表作です。
1937年の作品→『ゲルニカ』(外国のサイトです)
1937年の作品→『泣く女』(外国のサイトです)
1939年の作品→『WOUNDED BIRD AND CAT』(外国のサイトです)
晩年(65歳〜91歳、1946年〜1973年)
戦争が終わり平和が訪れ、ピカソは、ベラスケス、ゴヤ、マネら巨匠たちの作品のオマージュを、多彩な画材、手法で描きました。
死が迫る1972年には、多くの自画像を描いています。
1972年の作品→ 『若き画家』(外国のサイトです)
ジョルジュ・ブラック
ジョルジュ・ブラック 1882年〜1963年 フランス キュビスム
ピカソとともにキュビスムを担ったフランスの画家。
ジョルジ・ブラックと著作権保護期間
ジョルジ・ブラックは亡くなった年が1963年なので、著作権に注意が必要です。
戦後である1950年の作品であれば、戦時加算がないため亡くなった翌年1964年から起算して法改正前の50年、2014年に著作権保護期間が切れています。
しかし、1912年の作品は戦前であるため、1941年12月8日からフランスが平和条約に調印した1952年4月28日まではカウントされず、3794日追加されます。亡くなってから50年の2014年に戦時加算を追加すると2024年〜2025年になるためまだ著作権保護期間内であり、また2018年の法改正により、法改正時点で著作権保護期間内が切れていない作品は保護期間は50年→70年になったため、2044年くらいまで保護されます。
つまりジョルジ・ブラックの作品は戦後に発表されたものはすでに著作権保護期間内が切れていて自由に掲載できますが、戦前または戦中(だいたい1948年くらいより前)に発表された作品はまだまだ保護期間内のものが多いです。
1912年の作品(著作権保護期間内であるため掲載できません)→『ギターを持つ男』(外国のサイトです)