【国宝仏像】阿弥陀三尊像【三千院】の解説と写真
木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)(もくぞうあみだにょらいおよびりょうきょうざぞう) 分類 国宝 ※3躯で1件の国宝指定 ジャンル 美術品・彫刻 時代 平安 構造・形式等 木造 国宝指定年月日 2002 […]
木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)(もくぞうあみだにょらいおよびりょうきょうざぞう)
分類 | 国宝 ※3躯で1件の国宝指定 |
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ジャンル | 美術品・彫刻 |
時代 | 平安 |
構造・形式等 | 木造 |
国宝指定年月日 | 2002年06月26日 |
所有者 | 三千院 |
安置場所 | 三千院 往生極楽院阿弥陀堂 |
所在・エリア | 京都洛北 |
ホームページ | http://www.sanzenin.or.jp/guide/heritage/02.php |
阿弥陀来迎を描いた絵図は多くあるが、その姿を仏像として刻んだ珍しい作品。
来迎印を結ぶ阿弥陀如来を中心として三尊形式で、脇侍は観音菩薩と勢至菩薩。
観音菩薩・勢至菩薩ともに「大和座り」といわれるいわゆる「正座」をしており、他に例を見ない像容をもつ。
文化庁 国指定文化財等データベースより抜粋
三千院往生極楽院本堂(阿弥陀堂)の本尊で、堂内須弥壇上にこの三尊が安置される。如来と菩薩の表現上の違いを踏まえたうえで認められる各尊の面貌の共通性、耳の彫法の一致、および木寄せ構造の類似などからみて、三躰は一具と判断される。両脇侍が跪坐となる来迎形の阿弥陀三尊像は、天台浄土教の隆盛にともない一一世紀から行われてきたが、現存遺例によれば中尊像が等身やそれ以下など比較的小像が多いなか、中尊周丈六、両脇侍半丈六の大きさをもつ本像はその流れのなかで異例に属する。
極楽院(往生極楽院)は『吉記』の記事から真如房上人の創建とわかり、また本三尊像は銘記により、実照が願主となって久安四年(一一四八)に勢至像を造立したことが判明する。真如房上人は天台の浄土教家円昭のこととみられ、いっぽうの実照は天台僧行慶の下にいた。このことからわかるように、本像の造立には天台の教義という背景がある。さらにいえばこのころの大原は融通念仏の運動が盛んで、これを始めた良忍のあとを受けて第二世縁忍(本覚房上人)の活躍の場でもあった。大型の来迎三尊を造立したのは、大勢が集まって念仏する融通念仏の信仰形態との関連において理解できる。
木寄せ構造は、三躰とも前面が頭躰通して左右二材(両脇侍像は割首とする)、後面は頭躰別材で躰部背面が左右二材となるところが共通する。両脇侍像の躰部地付付近は変則的な木寄せにより半丈六という大像を前傾させる工夫をしているが、これは、このような造像例がそれまであまりなかったことによる。
像は当時行われた定朝様に則っているが、硬さのある肉身と形式的に整った衣文、あるいは装飾性のない光背と須弥座形式の台座は、このころの中央貴顕による造像に比べて異質で、その本躰の造形は、例えば奈良・阿弥陀堂(湯川区)阿弥陀如来像(承安元年=一一七一、重文)のもつ、硬質な肌合いと形式的な衣文から感じられる単調さに近い。造立の仏師としては、したがって、京都を含んで周辺地域をも活動範囲とする一団に属した者が想定される。
本像は京都周辺に残る定朝様の一例でありながら、銘記により製作年、願主、願意などが判明する稀有な例である。また融通念仏との関係が推定され、かつ中尊周丈六、両脇侍半丈六の大きさとなる来迎形阿弥陀三尊像の唯一の遺例でもあることからして、平安時代後期の基準作例中、美術的にも文化的にも重要な位置を占める。
※出典:国指定文化財等データベース(http://www.mext.go.jp/)