「山上の十字架(テッチェン祭壇画)」解説。特集:カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
ドイツロマン派の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの代表作品『山上の十字架(テッチェン祭壇画)』を関連する作品を交えながら解説。画像有り。
山上の十字架(テッチェン祭壇画)
まずは、こちらの二作品を御覧下さい。
この『山の風景』の前景から、本作『山上の十字架』が、後景から『山の朝霧』が派生して創られた。
風景画は、前景から後景へと、いくつもの風景が連なっていくのが、この時代のあたりまえだった。
それが、『山の風景』では、ほとんど前と後ろだけの二層〜三層となり、『山の朝霧』『山上の十字架』では一つの層だけという極限の表現をしている。
本作は、岩の上の十字架と樅(もみ)の木が、三位一体を表す三角形の形をし、はっきりとした宗教画となっている。
カスパー自身によれば、十字架上のキリストが仲立ちとなり、光の輝きを、人々(樅の木)にもたらしている。つまり、沈み行く太陽(神)から発せられる光は、直接大地を照らさずに、十字架のキリストが受け止め、やわらかく大地を照らしている。
この額もカスパー自身がデザインし、友人の彫刻家キューンが彫り上げた。
カスパーは初期の頃は主にセピアで描いており、油彩は行っていない。最初に油彩を試みたのは1798年であったが、試してみた程度らしく、それ以降、1806年ごろまで描かれていない。1807年の
が油彩の大型作品の初期の物である。
そして油彩が完成した作品が本作『山上の十字架』。
この作品は、テッチェン城に新設される礼拝堂に飾るために、ホーエンシュタイン伯爵夫人の個人的な注文に答えた物だった。その際、「油彩で」という依頼があり、当初カスパーは「外部から課せられた目的によってではなく、ふと心に浮かんだ内部の霊感に促されて自発的に絵筆をとる時にのみ描けるし、満足のいくものが作れる」としたが、結果的に双方合意し、額縁までカスパーがデザインするという提案も、熱狂的に受け入れられた。1808年のクリスマスにアトリエで初公開。
1809年、宮廷顧問官・美学者のラムドーアがこの絵を攻撃する批判文を発表し、カスパーや友人達、、フェルディナント・ハルトマンやゲールハルト・ファン・キュールゲンなどが反論する、いわゆる「ラムドーア論争」が起こる。新古典主義とロマン主義の対決である。
ラムドーアはこの絵の単一層の異様さ、絵を見るものの視点の定まらなさ、宗教的寓意がありながら、全く解釈できないと、寓意的風景画を完全否定した。それに対し、「芸術家は定められた規則やジャンルごとの序列にではなく、個人の天性に導かれて美的感動を超えた精神性を描き出す」とカスパー達は主張し、この論争は平行線をたどった。
カスパー自身による注解
「絵の記述。山の頂きに、常緑の樅の木に囲まれて、高くまっすぐに十字架が立っている。その柱には、常緑の木蔦が絡みついている。光を放ちながら太陽が沈んでゆき、十字架上の救い主は夕焼けの紫紅色に輝いている。
額縁の記述。額縁の両端は二本のゴシック式円柱で形成されている。その円柱から二本のナツメヤシの枝には五人の天使の頭部像があり、すべて十字架の方を讃えつつ見下ろしている。中央の天使の上に、澄みきった銀色に輝く宵の明星がある。下部にある横長の羽目板には、すべてを見そなわす神の眼があり、周囲に光線を放つ聖なる三角形に囲まれている。その両側から麦の穂と葡萄の枝が全てを見そなわす神の眼に向かって傾き、十字架にかけられた方の身体と血を暗示している。
絵の解釈。十字架にかけられたイエス・キリストは、万物に生命を与える永遠の父の像としての沈みゆく太陽に向かっている。イエスの教えとともに、ひとつの古い世界が、すなわち父なる神が直接地上をめぐり歩いておられた時代は終わった。このような太陽は沈み、大地はもはや去りゆく光を捉えることはできない。もっとも純粋で高貴な金属で造られた十字架上の救い主は、夕焼けの金色の光に照り映え、その光を和らげて大地に投げかけている。岩の上の十字架が、私たちのイエス・キリストへの信仰のように、ゆるぎなく、堅く、まっすぐに立っている。あらゆる時を通じて常緑の樅の木が、十字架にかけられた方への人々の希望のように、十字架の周囲に立っている。」
(『カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ パルコ美術新書』 39-40頁、PARCO出版、1994年)